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2011年 07月 24日
柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん) 1885(明治18)年10月15日― 1967(昭和42年)2月22日。 歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の1人。白蓮は1900(明治33)年、14歳で、子爵・北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子の資武(すけたけ)と結婚した。1901(明治34)年、15歳で男子、功光を出産した。しかし知的障害があったといわれる夫とは、早期に夫婦関係がまずくなり、5年後に離婚。実家に戻った。 1911(明治44)年、白蓮は、27歳で伊藤伝右衛門と再婚させられた。52歳の伝右衛門は九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士で、伊藤鉱業の社長である。これは兄・義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伝右衛門の思惑が一致したものである。 政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では、かたや名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで「黄金結婚」と祝福された。 伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神、さらには別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた)を建て、白蓮を迎え入れた。 白蓮は、1918(大正7)年、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表した。これが評判になり、劇団が上演を希望し、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者・宮崎龍介だった。龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天、龍介も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。 1920(大正9)年1月31日、別府の別荘「赤銅御殿」で会った龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。龍介も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。 その後、白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねて、姦通罪のあった男尊女卑の世の中で、やがて白蓮は龍介の子を宿した 1921年(大正10年)10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消した。2日後の10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。夫と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。同日の大阪朝日新聞夕刊に、白蓮名義で「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」という公開絶縁状が掲載された。 1923(大正12)年、関東大震災の後、白蓮の産んだ子は伝右衛門の子ではないという判決が下り、白蓮の姦通は明らかとなった。白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて伝右衛門との離婚が成立した。 当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、龍介に白蓮たちを引き取らせたという。龍介と結婚、長男・香織を伴い親子3人の生活が実現した。 しかし、夫・龍介は結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった3年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している。 1925(大正14)年には長女、蕗苳(ふきこ)が誕生した。龍介は結核から回復して、その後、弁護士として活躍した。 1945(昭和20)年8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加し、熱心な活動家として知られた。 1961(昭和36)年)、緑内障で両眼を失明し、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967(昭和42)年に死去(81歳)。
by ta-ura
| 2011-07-24 17:25
| 別府(人物)
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