江戸時代の別府の主要街道は、小倉街道である。現在の西法寺通りで、北から北町、本町、中町、南町が形成されていた。小倉街道が流川を超える際の橋の名称は本町橋で、この付近が別府の中心と言われる。四つ角には旅籠が成立し、中町の海側には高札場があった。現在のマルショクの駐車場である。さらには、高札場の湯もあった。
四つ角に位置する旅籠の屋号は、1902(明治35)年10月発行の『大分縣案内』によると、筑前屋(北の東辻)、佐伯屋(北の西辻)、天満屋(南の東辻)、中津屋(南の西辻)などで、この4軒の内、筑前屋を除く3軒が1804~1818年(文化年間)の屋号のままであり、当時から立地していたと推定できよう。なお、中津屋の南側には日名子(府内屋)があった。
1810(文化7)年2月、伊能忠敬が来別し、高札場に測量標を設置した。現在、記念碑が流川4丁目の道路沿いに建てられている。
なお、本陣は別府庄屋高倉策左衛門宅(現在の流川4丁目)、脇本陣はたばこ屋荒金市郎兵衛宅(南町)とのこと。