『別府町史』(別府町1914)によると、文化年間(1804~1818年)の別府村には湯株と称される21軒の旅館が成立していた。しかしその出典は未詳で正確な情報とはいえない。具体的には以下の通りとなる。
湯株保有者18戸として府内屋太郎兵衛、中津屋勘兵衛、天満屋三郎兵衛、伊豫屋利右衛門、三佐屋七郎右衛門、延岡屋孫之丞、田中屋茂兵衛、杵築屋平兵衛、竹田屋喜右衛門、角屋源左衛門、上角屋太兵衛、豊前屋兵左衛門、植田屋源右衛門、植田屋次郎兵衛、国東屋九左衛門、布屋平之丞、小倉屋勘右衛門、伊勢屋孫左衛門。
新株取得者3戸として竹田屋九兵衛、中津屋清右衛門、角屋六左衛門。
新株取得者の屋号は既存のものと同じであり、分家又は暖簾分けと思われる。
さらに屋号だが、色々な意味を持ち合わせている。
具体的には、
(1)経営者がその土地の出身者が多い
(2)宿泊者にその土地の出身者が多い
(3)その他
である。
筆者は(1)の立場をとるものである。その理由としては明治以降に開業した旅館の経営者は自分の郷里の地名を屋号に付ける傾向にあるからである。湯株21軒の内訳をみると、屋号に地名を用いるケースが目立つ。その範囲は多岐に渡っており、近くは府内(現在の大分市)や杵築、遠くは伊豫や伊勢に至っている。
参考文献(別府町(1914)『別府町史』別府町)
写真は天満屋の広告(佐藤蔵太郎(1909):『別府温泉誌』武田新聞舗)